霊鉾類記

霊鉾霊斎について

天國の霊鉾は、「因勅皇孫曰。豊葦原千五百秋之瑞穂國。是吾子孫可王之地。宜爾皇孫就而治焉。行矣宝祥之隆。当与天壌無窮者矣。」との天照大御神の御神勅に依り天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命 高天原より御降臨の砌り 天八意思兼命の神慮に依って 天石凝姥命の鍛え給えし御鉾に 天児屋根命畏みて 天乃御中主大神の大神霊に招神勤請の大祝詞を奏上、天孫國家守護を祈願され降神、鎮霊されし御神霊名。

大元霊 天乃御中主天津八都奈義日火岐志
地海岐志天之國常立大神と御尊稱奉ります。

神霊斎即ち霊は、生命の原理にして根本眞理の元であり、斎は、霊室城に「天津神籬乃天津盤境ヲ起樹当ニ吾孫ノ為ニ斎ニ奉ラム」と御降臨の神勅にあります。

天地の創生は霊気、陰陽気でその働き即ち、万物の化生の故縁はその霊法理であり、天地眞理(玉)の太元霊を招降神して國家護持、玉体奉護を祈願、鎮霊魂の霊法に依り御霊入を成す。是を御霊入乃儀と稱す。

古来より神霊斎は、神掟とされ天孫の玉体奉護、國家安泰に宏大なる神徳のもと不可思議な霊威(本体論的、歴史的、体験的証明によって)に依り幾多の御徴あり、皇室において使われる御劒に天國の名稱で数多く冠ばれるのはこの意味に存する。

例えば時の帝、東宮護劔(壺切丸)皇族方の御守刀は、天國の御霊入れがなされているので守護霊剣と申上げる。またその霊の働きも、奇魂、荒魂、幸魂、和魂は各々生成して、和、奇、荒、幸各魂となり、輪転してその霊の働き成就させている。神霊名は、各々その働きを示すといわれるのはこのためである。三種の神器が継承霊であるのに対して天國の霊鉾は、守護霊と申上げる。

中山宗家の家象でもある一品(一位)天國の宝鉾が國家霊鉾として尊稱される故縁は、天照大御神の御神勅に依り、邇邇芸命高天原より御降臨の砌り天孫國家守護を祈願され、降霊鎮賜える霊鉾で、歴代々の天孫奉護と皇威発揚の御時には、必らず勅を奉じ天國の霊鉾を奉戴し朝敵降伏の旗象にしていることであります。

例えば皇極天皇御宇、悪霊強き非道の蘇我入鹿を誅せしも、霊鉾の御加護なりと記録されており、また朱雀天皇御宇、平将門関東において叛するや勅命により参議、藤原忠文公征東大将軍に任じ、諸社寺に朝敵降伏の御魔法を修すことになり、寛朝大僧正(成田山遍昭院)自ら戦乱の地に下られ、降伏護摩の秘法を修することを嘉し給い、朱雀天皇より宝剣(天國の分霊)を下し賜う。この宝剣が交通安全で有名な成田山の霊宝となっている。

その他争乱に関し朝敵平定の名のもと、勅命によって天國の霊鉾、剣が奉戴されている。

「天國の宝剣」について成田山史に「所伝によると歴代の天皇常に玉座の側に奉安せられ給いし玉体御守護の霊剣である。御本尊明王の霊徳と共に、誠に不可思議な霊験現わし給う。古来「宝剣頂戴」と稱して宝剣を拝する時は、乱心狂気もたちどころに止み、熱病寒疾も速かに癒え、諸々の魔障を除き、息災成就を得る。また其不可測の霊威を畏れ、これを「宝剣様」と稱して最も厳粛鄭重に取扱っている。」とある様に不可思議な霊験を現わす事は、即ち霊の働きによるもので、以上の霊法に依って持つべき方が持たない場合、その霊の働きで各種々の災難を蒙った等々いわれるのはこの様な意味が存するのである。

古語の「たま」「ひ」「いつ」等の表現にみられる神霊入による霊鉾、霊剣と尊稱される故縁でもある。

また皇室に祭祀されている八咫鏡、中山宗家に賜る神鉾の鍛造は天石凝姥命の神霊法の技術が活かされている。

古来より「タタラ吹キ」という製鋼法が伝えられているが、これは砂鉄と木炭を混ぜ土カマで焼き、これを炭素分の少ない鋼(玉鋼)を造り、これを延しながら二ツ折、四ツ、八ツ、十六と幾何数的に鎚で鍛えあげ、脱炭数十万の断面層を作る精巧な技術があったといわれ、特に石凝姥命の鍛える鋼はその神霊力による高度なものとされ、また天上から落下した隕鉄すなわち鉄隕石(六、八面体晶の鉄、ニッケル合金)などで鍛造する特殊技能を有していたと伝えられている。

霊鉾は旗しるし

玉体奉護と國家鎮護の國家神器としての天國の霊鉾が、中山宗家に下し賜ったのは、さきに吾妻下りによる中山愛親公が死を吐しての尊号事件の功労及び忠伊公(愛親嫡男)の王政復古に努め自刃せるを憫量ありて皇子武生宮長仁(改忠伊公)に永代大臣の家格を添え、王政復古への錦の御鉾として光格天皇自ら愛親、忠伊公に賜いし霊鉾にて、王政復古の旗主として總てを中山宗家に託されたものであります。

以来忠伊公は、霊鉾を奉戴し、四十有余年の間勧誘説を実行され、天忠党傘下組織の要の役として其の一生を王政復古に捧げられました。

中山宗家に下賜された天國の霊鉾は家代々の嫡孫が奉斎し、すでに百六十有八年の歳月を数えるに至ったのであります。

元来、天國の霊鉾は、大元霊、天之國常立大神の御神霊であり、この日の本天孫國家鎮護の守護大神であります。
御神霊の御神徳に應え奉り、また中山宗家に下賜された勅命のもと、より一層の奉斎に是努め公國の繁栄を念願するものであります。

参考 附の一 八咫鏡

人皇第十代崇神天皇御宇、御鏡と御剣の分身(分霊)を作り、神璽(八坂瓊曲玉)と共に宮中に安置されました。
特に注目すべきは、代々この分身を鍛造したのは、石凝姥命の子孫であり、分霊入れは、天児屋根尊の霊系及びその子孫であった。

鏡の御本体は、天照大御神霊体として、伊勢皇太神宮に草薙剣(斎王、倭媛=天児屋根尊霊系による天國の御霊人)は熱田神宮に奉斎され、前紀の分身(分霊)は宮中の溫明殿(賢所)に安置されて高級女官の内侍が奉仕していた。この御鏡も記録によれば三回火災にあい消失した。

その初めは、村上天皇御宇(天徳四年)「形ハ円ク直径八寸(二十五糎)」、二回目は、一条天皇御宇(寛弘二年)、三回目は、後朱雀天皇御宇(長久元年)「円鏡相当古イ時代ノ作。直径五、六寸」とある。

参考 附の二 草薙剣(天叢雲剣)と東宮護剣

古代伝説上では、須佐之男命が高天原を追放され出雲の國に降り、八岐大蛇(ヤマト族鉄鉱山支配部族)を退治した時、発見されたことになっている。

その後この剣を天照大御神に献上された。これを瓊瓊岐尊(天孫)に授与され、人皇第一代の神武天皇以来、八坂瓊曲玉(神璽)、八咫鏡合し三種の神器として、歴代天皇の皇位継承の証となった。

この由来は、古事記、日本書紀に詳細が記されている。戦前の規定では、先帝崩御と同時に三種の神器が継承され、皇位が決り、始めてその儀式が行われる。即ち践祚であります。(皇胤であっても践祚をしなければ皇位は継げない)、また皇位につく即位式は、先帝の喪が明けて行われた。

草薙剣は、嘉永四年三月壇ノ浦の海で平家滅亡時二位の尼(清盛の妻時子)に抱かれた安徳天皇と御璽(曲玉)と御剣を持って海底に沈んだが、御璽は木箱に入っていたので浮び、御鏡は、唐櫃に入れ、奉安してあったので無事だったとある。

それ以降は御剣の代りに天皇が清涼殿で用いられる昼御座剣を代用され、順徳天皇(鎌倉時代)に神告により伊勢皇太神宮の宝剣が献上されて御即位に使われたとある。記録に「普通ノ蒔絵ナリ」。また草薙剣も盗難に遭ったが無事熱田神宮に奉斎された。

この様に分身の御剣と御本体の御璽(曲玉)を剣璽と稱して、歴代天皇が引継かれている。また剣璽渡御の儀には、皇太子の象徴として壺切御剣か東宮御相伝の護剣として使われている。

この壺切御剣の由来は、藤原長良から藤原基経にその後、宇多天皇に献上された。宇多天皇より皇太子(後の醍醐天皇)に授けた事に例い後三条天皇御宇(治歴四年)内裏炎上のため、同寸法の御剣を、また承久ノ乱の時、後深草天皇の皇太子の時に新作されたものといわれ現在に至っている。(皇室辞典)

この様に八咫鏡、草薙剣の参考附を挙げたのは、鍛造され、御霊入の儀によって始めて、神器神体であり、その移身(分霊)について古来そのままの御配慮を理解するためである。御霊入は、天児屋根尊の霊系山陰神祇継嗣者によって行われている。

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倒幕ノ内勅
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光格天皇御製
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