勝山 泰明
寺院住職として思うこと
浄土宗西山禅林寺派元宗議会議長
勝山 泰明
過日、旧友安積義尊氏と池沢良信氏の来訪をうけた。
義尊氏は相変わらぬ元気な義尊氏であるが、当日の話は専ら基本的人権の話であり、同和教育の話であった。
各宗団に見られる実践活動の低調さを歎かれた。
ガッンと頭を叩かれた思いがした。
長い間、学校に勤め、同和教育の重要さも知り、毎年『友だち』をテキストに、基本的人権を中心に、同和対策事業特別措置法成立に至る過程から地域改善対策特別措置法に至るまでの経緯を話し、実態的差別は急激に減少したけれども、心理的なものが同時に完全に消えるとは断言できないから、これから先もたえぬ勉強、反省が大切なことを強調しているのである。
そしてこれを話しながら、わが心の内を省みて、この意識の完全払拭の難しさを痛感しているのである。
ところが今回は自坊に帰ってからの両氏来訪であり、然も同職の方の活動を基底としてのお話である。
自分は一体、寺院住職としてどれだけのことができているか。
全く恥かしい。
退嬰的であると指摘されても致し方がない毎日である。
さすがにお二人は、そこまでいわれなかったが、一冊の書を置いて行かれた。
河合広仙著『差別と仏教』である。
今まで存じなかったが、河合氏はお近くの方である。
今再読させてもらっているが、氏は、この誤った意識をつくり上げた責任を徳川の幕藩体制だけに押しつけず、その身分階級をやむを得ぬものとして不思議とも何とも感じなくした影の力となったわれわれの先輩の仏教者たちの責任を考え、後輩たるわれわれの決起をうながしておられるのである。
こう言っておられる。
「そしてこの差別意識を止むを得ぬものとした根源は、仏教の教理に内包する所の、今の世における幸・不幸のすべては、前世からの宿世の業(行為)とする宿命説と、その宿命の前提となる古代インドからの、釈尊の真説でない生死輪廻説を説くことによって、この現実の世の中は迷妄煩悩の苦の世界だ、だから不合理矛盾だらけで、不平等差別があるのは当然、権力者の絶対的支配のそのままを肯定するしかないのである、と専制封建的制度・権力者に盲目的服従を強いたことにあるのです」と。
身分や貧富や職能で差別の基準を決めてはならぬ、行いによって人間としての価値が決まるのだという釈尊の言葉通り、差別の実態を転換させたいといわれる。
そして同じく近くの河合真英老師のとられた慈徳会という名称の事業を、仏教者のなすべき差別解放運動の基本とすべきだと言っておられる。
自分には著者の河合氏ほどの仏教の素養がない。
しかし言われることは十分理解できる。
そこで浄土宗に属する一寺院の住職として、思うことを端的に述べさせてもらう。
お釈迦さまの教えは、人間が仏になるための教えだと了解している。
迷いと苦しみに終始しているこの私が、迷いから解放され、苦しみから脱け出すことができる方法を教えられたのだとお受けしてよいと思う。
そうされたもとをただせば、お釈迦さまがやはりこの私と同じように迷いと苦しみにさいなまれる生活をしておられて、それに気がつき、まず御自身がそのさいなみから脱れようとして成功された。
そして私たちをもそのさいなみから脱れさせようとされたために、後世のわれわれがその教えにあやかろうと仏の教えを信奉するのである。
お釈迦さまは私たちの迷いと苦しみのもとを三毒煩悩とみぬかれた。
貪欲・瞋志・愚痴と表現されるこの三つは、私たちの目をふさいで、物を正しく見ることを困難にしてしまっている。
お釈迦さまは、この執われを解きほぐして安楽な世界に生きられたのである。
その執われの生活の中に身分制があった。
バラモン教によるカースト制があった。
四つの身分と更にその下にアウトカーストが設けられた。
迷いの根源たる身分制にお釈迦さまが安住できるはずがない。
そして出家した。
「人は生れによって貴いのではない。生れによって賤しいのではない。行為によって貴いのである。行為によって賤しいのである」(『法句経』)
人権の根本たるこの考え方が、お釈迦さまの考え方の根底にあることは疑う余地がないと思う。
お釈迦さまのもとには、いろんな人が集まってきた。
しかし考え方の根本が同行者的であり、世俗の身分制の否定であったから、あらゆる階級の人々が、そこでは法を求めるものとして平等に扱われた。
生きとし生けるものに仏になる可能性(仏性)を見、分けへだてのない平等の友情に繋がれた人間の集まりと想像して間違いはないと思う。
次は、宗祖法然さまである。
『勅伝』に「歓喜の余り、高唱念仏すること数千遍、感悦髄に徹し、落涙千行なり」と記されているのは、法然上人四十三歳の春、善導大師の四帖の疏により、出離生死の道は念仏より外にないことを感得された時の表現である。
上人が九歳の幼時からこの年に至るまでの三十五年の研学修行は、まことにこのことあらしめんがためであったといえる。
その喜びのほどは察するに余りがある。
ここにおいて上人は「念仏の一行」に生きられることとなった。
新しい幸せを庶民にも伝えんと、住みなれた黒谷の禅房を出て、洛東吉水の一草庵に住む身となられた。
この念仏のことが伝えられると、?するものの水を求むるが如く、上下貴賤の信仰するところとなり、風に草のなびくが如く、庶民の心はこれにしたがい、遂に吉水の庵室を中心として、念仏を求めるものの数はふえ、知らず知らずの内に教団が作られていったという。
次後、歴史上に残るいろいろな事件が続いたが、ここで申したいのは、既成宗教に対して往生浄土の教えを押し立てて新しい宗教を樹立された点である。
貴族的に対して民衆的、特殊的に対して一般的な語りかけである。
権威との結びつきと、祈?宗教への堕落とにあいそをつかしていた民衆を想像し、上人の教えがいかに人々の心を収集したかは想像に余りがある。
ここで考えると、法然上人のころは今日のように差別とか同和とかいったことが人々に徹底していなかったと思われるから、上人のおことばの中に、平等とか不平等とかいった表現は見出し得ないが、建永二年、念仏禁止の厳命とともに法然上人に対する流罪の宣告が下された時に、世間にみなぎる悲哀の気分に引きかえて、上人は「辺鄙に趣きて、田夫野人に念仏をすすめんことは年来の本意なり、しかれども時いたらずして、素志いまだ果たさず、いま事の縁によって、年来の本意をとげんこと、すこぶる朝恩ともいうべし」といって、喜んで配所に出かけておられる。
讃岐への道すがら、民衆に対する教化のさまが数多く伝えられているところをみれば、その民衆に対する分けへだてのない考え方が偲ばれるのである。
こうして釈迦にはじまり、法然を通して念仏を奉ずるわれら浄土教信者である。
いまだに江戸の時代の名残りに圧せられて、教えの本来たる出家の道に徹し得ぬわが身を反省することしきりである。
余談になるが、学校にいる関係でよく学歴無用論というのに出くわす。
大学でも高校でも中学でも出た学校はどこでもよい、実力次第で要職につけるというのである。
この場合の学歴は出た学校をいうから学校歴の意である。
ところが学歴には今一つ学問歴という考え方ができる。
学問をしたものが社会で大切にされるのである。
職場で学校を出ていない職長さんを、若いものたちが、うちのおやじ、よく勉強するなとほめているのは、その積んでいる学問に対する称賛である。
これから考えると、これは学歴有用論ですなと人を笑わせることがある。
無学無名の人格者もいれば、有識有名の破廉恥漢もいる世の中である。
重ねてねがうことは、何のわだかまりもなく、人格的にすぐれた人間がいい人間と、お互いに認めあえる世の中にしたいものだということである。
昭和59年12月1日