大石 義雄

人権尊重の原点

京都大学名誉教授
大石 義雄

現代の憲法は人権を守るためにこそ存在するものだと言ってよい。
例外の国もある。
共産ソ連と北朝鮮がその典型例だと言ってよいだろう。
権力万能、暴力万能の国、それは共産ソ連、金日成政権下の共産北鮮である。
これらの国々の人民には財産所有の自由もなければ、言論、集会、結社の自由もありません。
あるのは権力への服従と暴力の恐怖だけである。
里帰りの自由も認められていない北鮮における日本人妻の悲運が説かれて久しい。
これでは、生きることの自由がないと言ってよい。

これとはちがって、日本やアメリカや、いわゆる自由諸国の憲法下では、人権を守ることこそ、憲法の使命だということになっている。

・日本における憲法と人権との関係

日本では、旧憲法でも現憲法でも、人権の尊重が憲法の大事な眼目となっている。

戦後の日本では、旧憲法すなわち大日本帝国憲法といえば、それは非民主主義的なものであって人権などは尊重されていなかったかのようにおもわれている。

しかし、それは大変なまちがいである。
旧憲法は明治二十二年二月十一日に制定発布されているが、旧憲法の基礎となっているのが明治元年の五箇条の御誓文である。

五箇条の御誓文を見ると、第一に「広ク会議興シ万機公論ニ決スベシ」と宣言している。
「万機公論ニ決スル」とは、国の政治は国民意思を基礎として行われなければならないということである。
国民の意思を基礎として行われる政治、これこそ、今日のいわゆる民主主義政治のことである。

だから、五箇条の御誓文は、日本民主化の大宣言だったということである。
旧憲法すなわら大日本帝国憲法は、この日本民主化を具体化するものとして制定されているのである。
その具体形式は議会政治体制の形で現われている。
法律も予算も、国民代表の議会の議決を経てきめられることとなっていたのである。

税金を取るにも法律によらなければならないし、処罰するにも国民代表の議会の議決を経た法律によらなければできないことになっていたのである。

だから、旧憲法も民主主義的憲法であったことは疑問の余地がないのである。
だからこそ、占領軍が日本占領中、日本民主化のため旧憲法を今日の日本国憲法に変えさせようとしたとき、当時の首相幣原喜重郎が憲法改正の必要はないと宣言したのである。

それにもかかわらず、占領軍当局が強引に憲法改正を要求し、今日の日本国憲法に変えさせたのはなぜか。

・占領軍が旧憲法を変えさせたねらい

それは、名目的には日本民主化のためと言っているが、そのねらいは日本を弱体化することにあった。
それは占領軍当局のことばによれば「再び連合国に対して脅威をもたらすことのできない国にする」ということである。

そのため、戦後の日本人が自分の国を自分でまもろうともしない人間になり下がっていることは周知のとおりである。
それなのに、戦後四十年に亘って日本人は平和をたのしむことができたのはなぜか。

それは、戦争が終るとすぐ、アメリカと日米安全保障条約を締結し、日本が他の国の侵略を受けるような場合はアメリカが守ることとなっているからである。

しかし、今は事情が変っている。
権力万能、暴力万能の共産ソ連が、アメリカに追いつけ、追い越せで、食う物も食わないで軍事力強化に浮身をやつし、今日では世界第一の軍国主義の国に変って、世界不安の震源地になっている。

これに対抗し世界平和を守るためにアメリカ大統領レーガンが、けんめいの努力をしていることは周知のとおり。
アメリカの負担は重くなって、せめて日本が自分の国は自分で守るように努力することを強く要求しているのが今日の実状である。
ところが、日本自身はあなたまかせで、自分の国を自分で守ろうとはしていないように見える。
防衛費は国民総生産の一%内だと他人事のようにおもっている。
他の自由諸国は、アメリカとともに、防衛にけんめいの努力をしている。
日本も、自由諸国の一員として世界平和維持の責任を負うていることを忘れてはならない。
自分さえよければよいというようなことは、国際的にも国内的にも許されるはずのものでない。

権力万能、暴力万能の悪魔からいかにして人権を守ることができるか。
これこそ、憲法が人権というものを宣言している根本問題であるか。

・憲法が宣言する人権

憲法が宣言している人権と言っても、平等権もあれば自由権もあり、請求権もある。

これらのどれも、旧憲法でも今日の日本国憲法でも、人権として宣言されている。
表現形式がちがっているだけのことである。

第一に、平等権についていえば、旧憲法では、たとえば、十九条で「日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其ノ他ノ公務ニ就クコトラ得」と定められている。

これに対して、今日の日本国憲法では、たとえば、十四条一項で「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と定めている。

第二に、人権としての自由権と言っても、いろいろあるのであって、旧憲法では、たとえば身体の自由については、二十三条で「日本臣民ハ法律ニ依ルニ非スシテ逮捕監禁審問処罰フ受クルコトナシ」と定めているし、現憲法でも、身体の自由が人権として保障されていることに変りはない。
また財産所有の自由については、二十七条一項で私有財産制が保障され「日本臣民へ其ノ所有権フ侵サルルコトナシ」と定められている。
現憲法でも、私有財産制が保障され、これを基礎とした国民の経済的自由活動が今日の日本を世界第二の経済大国たらしめている。

次に宗教の自由については、旧憲法では、二十八条で「日本臣民へ安寧秩序ラ妨ケス臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ラ有ス」と定めている。
だから、旧憲法下でも仏教徒になるかクリスチャンになるかは各自の自由であった。

今日の日本国憲法では、信教の自由については二十条の定めがあり、次のように定められている。

二十条
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。
いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

現憲法では、人権として、ほかに個人権を認めている。
すなわち、現憲法の十三条によれば「すべて国民は、個人として尊重される。
生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と定めている。
国民個人のこの地位を個人権という。

だから、日本人は共産ソ連や北朝鮮などとはちがって、階級利益などよりも国民個人の立場が尊重されなければならないようになっている。
ソ連のような共産社会では、個人の立場よりも、階級利益が尊重される。
実際的にも、ソ連や北鮮のような共産社会では、階級的権力、階級的暴力が国民個人の立場を全然無視している。
この点こそ、共産社会と自由社会の根本的らがいである。
日本が憲法上自由社会であることは昔も今も変らない。

昭和59年12月1日

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